
平成18年10月31日、78才で生涯を閉じた旧大森町助役千田宏二氏を偲び、生前大変お世話になった氏のご冥福を祈りたいと思います。
平成13年一緒に旅行したときの千田宏二氏
私が、この方と初めてであったのは、私が39才で大森町町議会議員になって、一期目の途中であったと記憶しています。当時大森町出身の県議会議員であった柴田康二郎氏の在任15周年記念大会というのが計画されて、本来であれば助役伊藤俊一氏がその世話役を担うはずでしたが、前年に逝去されて私が当時の町長阿部勝行氏に頼まれて、及ばずながらその準備に携わっていたときでした。
ちなみに伊藤俊一助役さんも大変温厚な人柄で、職員には信望が厚い人でした、逝去されて本当に残念でしたが、後任の千田氏は、その実弟に当たられます。
阿部勝行町長の意向で、助役に就任されてからは、本当に誠実な人柄と、正義感の強さで役場内をリードし、引っ張ってくれたものでした。希有な才能と言いますか、一徹な信念を上手に、人様にいやがられず、知らぬ間に通していくような方であったとおもいます。
千田氏のお人柄を顕すエピソードに、こういう話しがあります。当時大曲市役所職員として、議員研修の随行で名古屋に言ったとき、同行された市会議員で、山本三次郎さんという方が、「初対面では怖い方で、話も出来なかったが、研修先の旅館で、酒を一滴も飲まずに一心不乱に机に向かって資料を書き写していた、その姿勢に打たれた」、と言う話しをしていました。以来このお二人は生涯の友人として結ばれていました。山本さんに対する尊敬の念は、大森町の助役になっても私どもに語る口調から、失われていませんでした。私も以後、何回か山本氏に会うことがありましたが、千田さんの尊敬する山本さん、という印象を持っていました。
実際、議員と職員の関係は難しいものがあります、時々の議員としての言動は、時には執行部を批判する立場になったり、執行部を糾弾する場合も、市長選挙の際なども、職員は微妙に動きを察知して自分の立場を守ろうとするのが当然です。
長い間、二人はどんな立場になっても、信頼関係は崩れなかったと言うことですが、実は本当に難しいと思います。そう言う関係を築ける人であると言うことです。
千田さんのエピソードは、氏の口から聞いた話だけでも、自分の生き様の指針になったり、反省材料になったりと言うことが、沢山あります。
もう一つ紹介しましょう。
千田さんは、大曲市役所時代は、建設畑に技術屋さんだったようです。
当時、小学校にプールを設置するようになったとき、どこに行っても雛形になる設計はなかったと言うことで、技術屋魂で、この時こそ自分たちの出番だと言うことで、小学校のプールを設計して作ったと言うことです。
この仕事が、近隣小学校のプールの基本になったという話しです、多くのプールが千田氏の設計により作られたという事でした。
なかなか職人魂で、誇りを持って職務に全うする氏の姿が見えるようです。
助役としても、若い職員にそう言った話をしながら、期待をかけていたものでした。
こういう話しを綴っていけば、いつ終わるか分からなくなりますが、もう一つ、大森町長であった阿部勝行氏との関係についても、両氏の見識の高さがなしたことと思いますが、特異なほど個性の強い、強力なリーダーシップで町づくりをしていた阿部氏の助役として、実に見事に組んできたものだと感心しています。千田氏も、時折、衣の下の鎧が見えるときがありましたが、気が短い方かな?と言うところもあったものですが、うまく波長を合わせながら、コンビを組んでいました。阿部氏に対しても譲らないところは頑として譲らなかったそうで、そのうち阿部氏との間で、うまくお互いの能力が生きる関係が出来ていったと思います。真に合併前の大森町が他町村にうらやましがられた豊かなまちづくりの原動力でした。
他にも、いつも若い者に声を掛け、その成長を歓び、地域の将来を憂い、「何とかならないものか」と言う思いを絶やさない人でもありました。職員に対しても、私たちの対しても、怒らず、押しつけず、相手を立てながら反省を即したり、気合いを掛けたり、まねの出来ない仕草、人柄であったともいます。そして何よりも私が尊敬していたことは、どんなときでも「こうあるべきだ」と言う線を意識しておられたことです。また正義感に裏打ちされた人でもありました。今時、うまく立ち回るすべはあっても、愚鈍なまでに社会正義を持ち備えたリーダーは珍しいのではないでしょうか。
今私は、阿部町長、千田助役の英断で建設していただいた大森町きのこセンターの活動を通じて、地域の活性化に微力を尽くしていますが、良いときに、いい人に巡り会った幸せを感じています。いまでは地域で米に次ぐ基幹作目として成長しています。
一言で言えば、教育者であったと思います。教壇に立たない、素晴らしい教育者でありました。行政マンであっても、会社員であっても、農家であっても、仕事を全うし、仲間をリードし、後継者を育てると言うことは、教育者としての資質も求められることです。
78才の生涯と言えば、今時早い逝去でありましたが、今では仕方のないことです、安らかにお眠りいただくことをお祈りして、筆を置きたいと思います。
気持ちとしては、まだ始まったばかりの話し、という感じですが、いつの日か又続編を書きたいと思います。