
今回は、随想ではありませんが、地域に伝わる梵天行事を紹介したいと思います。
この行事は、三助稲荷神社に梵天・恵比寿俵・幣札を一緒に奉納して、三助の名前の由来である商売繁盛、五穀豊穣、家内安泰の三助け(みたすけ)を祈願する行事です。
この三助け、三助が通称となるのは商売繁盛を御利益の一つとすることからすれば、稲荷神社となった後と考えられています。大正初め頃編纂された「川西村郷土誌」では、三助とは明示されていないので、公式な名称ではなく、あくまで通称として流布したものと考えられています。
また、この神社の起源は、地元の伝承として、永禄年間(1558〜70)に、越後の国高田の落人高田甚右衛門がご神体を背負い袴形村(「雪の出羽路」では泉、
高安氏に一流で袴形村東部、一本柳で雄物川の川岸に船着き場を備えた屋敷を構え、河川回船および北前船交易との密接な関係があった一本柳高安家の始祖喜兵衛が伏見稲荷より分霊を受けて稲荷社となり、その孫鶴太郎が明治元年(1868)に社殿を修復したとされています。
この梵天行事は、往時は近郷近在から道すがら他の梵天と行き会い様に先陣争いの押し合いを繰り返し、道無き雪の中に、踏み固められた広い道が出現するほど多くの梵天、恵比寿俵、が神社に向かったものでした。このようにして、ホラ貝を鳴らしながら神社前に集結し、さらに参道を先陣を争って神社に殺到した勇壮な梵天行事として知られていました。
拝殿の中ではもみ合い、押しあう人の熱気で、湯気がぼうぼうと立ち上がり、屋根の雪も溶けて流れ落ちるほどでした。
しかし、今となっては、時代の流れでしょうか、参加者も少なくなり、往年の勢いはありませんが、それでも地区の行事として多くの人に「三助さん」として親しまれ、小学生の梵天奉納や、梵天コンクールなど伝統行事の保存発展に努めているところです。
この行事は昔は旧暦の1月20日でしたが、その後新暦の1月20日となり、昭和42年からは、1月20日では当時盛んであった出稼ぎの関係で、参加者がいなくなることから、1月5日に行われるようになりました。
そして、今年からは1月5日では、仕事始めになっている事から、これまた参加者が少なくなると言うことで、昔の1月20日に近い日曜日と言うことで、1月の第3日曜日を祭り日として変更しています。
今年は変更した第1回目のお祭りでした。
大人の梵天7本、小学生の梵天4本が奉納されています。